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フランス6人組の音楽について
(作曲家・山口博史先生、
妹・飛幡祐規(たかはたゆうき・在パリ30年・訳書「フランス六人組」他)に協力いただきました。)
この6人の作曲家たちを「ロシア5人組」になぞって「フランス6人組」=「Le Groupe Des Six」と名づけたのは、評論家のアンリ・コレ(1885−1951)である。1920年1月の「コメディア」誌に彼はこの名称で6人を紹介し、本人たちの知らぬ間に「6人組」は結成された。共通の友人で詩人のジャン・コクトー(1889−1963)は、「ル・コック」という機関誌を作って音楽論を展開し、「6人組」の宣伝をする。
しかし6人に共通の美学や趣味があったわけではなく、いつも集まっていた仲のよい友達にすぎなかった。後日、ガヴォッティとの対談(1950)中で、オネゲルは「仲間たちは6人だけではなく、イベール・マニュエル・デルヴァンクール・ヴィエネルらもいたのに」また、「コクトーは我々を同じ花瓶に入れたがったので迷惑だった」など、苦笑混じりに述べているが、無名の作曲家たちにとって、世に知られ、雑誌に紹介され、外国から招待がくることは悪いことではなかった。
彼らは作品を持ち寄って、ピアノ小品集「6人組のアルバム」(1920)を出版し、いくつかの演奏会をし、デュレが抜けた後に、コクトーの台本によるバレー「エッフェル塔の花嫁花婿」に5人で音楽をつける。
しかし程なく自然消滅する。「6人組はなくなった。独立した6人の音楽家が残った。」というサティの言葉(1922)やラディゲの死の直後の、コクトーのマリタンへの手紙(1923)が、解散の宣言のようだと、ヴィルタール女史は言う。この辺の事情は、神武夏子の妹(飛幡祐規=たかはたゆうき)が翻訳したヴィルタール女史の労作「フランス6人組」(1989・晶文社)に詳しい。 |
<友情>
6人組消滅後も、彼らの暖かい友情は終生続いたようだ。これは素晴らしいことだ。さらに素晴らしいのは、その後6人が独立し、各自が、良い仕事を続けたこと。(既にミヨー・オネゲル・プーランクは音楽史上揺るがぬ評価を受けている。近年特に、プーランクの人気は高く、タイユフェールの再評価もすすんでいる。)そして、何より彼らの音楽が今日も変わらぬ新鮮な魅力を持って我々に語りかけてくるだろう。(このCDはその良い証だと思う。)たぶんその魅力は20世紀初頭のパリという街の特殊な状況と無関係ではない |
<20世紀初頭のパリ>
1914年に始まった第一次世界大戦は予想外に長引き、大きな被害と物の窮乏をもたらした。一方、人々の生活をみると、電気を始め様々な科学的発見が、生活様式を大きく変えた。例えば、電気の普及は、暗かった夜をにぎやかな不夜城に変えた。また、パリに地下鉄ができ、自家用車が普及し、電信・電話・映画・蓄音機などの発達もパリを活気づける。戦争後しばらく、パリの若者たちは、「戦後の大バカンス」(タイユフェール)が来たように、毎日「祝祭と狂乱の日々」を楽しんだようだ。交通手段や様々な娯楽の進歩、女性たちの解放、戦争が去り、すべてが良くなるという希望の中で、多少はしゃぎすぎの、この時期の「6人組」の作品から聞こえてくるのは、幸せな時代の若者の音楽だ。それらは幾分、60年代のザ・ビートルズの音楽を私に連想させる。ドビュッシーやフルーストの美しい世界は、やや過去の特権階級の匂いがする。孤高な天才の芸術だ。それに対して、「6人組」の音楽は、普通の若者たちのメッセージ。それは、Grand(偉大)でないかもしれないがBon(良質の)Musicien(音楽家たち)の等身大の音楽。 |
<諸芸術の流れと6人組の位置>
パリは「芸術の都」と言われるが、特にこの時期は、豊かで、様々な傾向へ移り変わりも早い。美術の方では、19世紀のさいごの25年で、印象派、象徴派、そして20世紀にはいって、フォービズム、キュビズムといわれる様々な傾向が実り多い作品群をもたらした。戦中から戦後にかけては、ダダイズム、シュールレアリズムと形を変えるが、それは「未来派」とともにあらゆるジャンルの型を破る。
音楽の分野では、フランス人たちが自分の言葉で良い作品を生み出すのは、19世紀も終わりの20年くらいである。ドイツ、特にワーグナーの影響力は絶大で、その呪いを解き放ったのが、たぶん、1902年初演のドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」だろう。
20世紀のはじめの10年間は、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェルたちが、それぞれの道の上で多くの成果をあげる。1910年代では、何と言ってもストラビンスキーの「春の祭典」(1914年)サティの「パラード」(1917)のスキャンダラスな初演が大きい。
特に、コクトーの台本にサティが音楽をつけ、ピカソが舞台美術を担当した「パラード」は彼らに大きな影響を与えた。「ル・コック」やその前の「雄鳥とアルルカン」という雑誌でコクトーがドイツロマン派やフランスのドビッシー派を批判するとき、彼にとって新しい音楽の理想はサティだった。
無駄な装飾を捨てた簡素で率直な表現、明晰な構造、民衆的な笑いと知恵、日常性に根ざした芸術と、何よりもフランス的な音楽をという理想の美学をコクトーはサティに認め、さらに「6人組」に期待したようだ。
6人(正しくは、オネゲルを除く5人)はサティの強い影響を受けた。そして「パラード」の後は彼らの出番である。6人とも作風も趣味も違うが、単純で率直、明晰で機知に富み日常性に根ざすなど多くの点で共通している。
その後時代は変わり、バルトークやシェーンベルクの実権が続く。さらに、第二次世界大戦後のミュージックセリエル、コンクレート、偶然性の音楽で現代音楽はすすみ、普通の聴衆はおいていかれる。
一方「6人組」はわかりやすい旋律(メロス)や人間性(ユマニテ)を失わず、民衆と共にある。彼らは「偉大」でも「革新的」でもないのですぐ忘れ去られた。深刻でまじめな音楽が良いとされる時代に、彼らの音楽は、あまりに軽薄に見えた。
しかし、21世紀に入った今、日常性に根ざした彼らの音楽を思い出すことは、良いことかもしれない。音と人の関係はずいぶん多様化してきた。深刻でまじめな音楽だけが良い音楽なのか?音楽とは何か?という問いとともに。
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更新日:16年10月12日(ybb)
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